保安室。「みんな集まってくれ……」 室長が部屋に入って来るなり室員を全員招集した。それを聞いた室員は三々五々、室長の机の前に集合した。「もうすぐ東京でG8外務大臣会合が開催される。 ついては国際テロリストであるクーカの所在を明確にせよとのお達しだ」 そこへ出席する欧州の政治家へのテロが心配されていた。つい最近にも欧州の有力政治家が暗殺されたのだ。 もっとも手口がクーカに似ているだけで、彼女の犯行である裏付けは何も無かったらしい。 そのクーカが日本国内に潜伏しているのは、自分たちの国の外相を狙っているのではないかと心配しているのだ。 もっともな意見だった。「我が国の威信が掛かっている。 各員は国内の過激派などの情報の収集に努めてテロを未然に防ぐようにっ!」 参加国の治安機関側から、自分たちに捜査をやらせろとせっつかれたらしい。もちろん、日本の警察のメンツにかけてもそのような事は許すつもりは無い。 だが、CIAからの要求は執拗だった。クーカは自分たちの資源なので勝手に手を出さないようにと繰り返して言って来たのだ。(日本の治安機関の一つである我々がクーカの事を知るや遠慮しなくなった……) その割にはこちらの頼み事を聞かないでは無いかと言いたかったが室長はグッと堪えていた。 彼らの持つ情報網は魅力的だからだ。(恐らくはこちらへの根回し無しで勝手に暗躍してるんだろうがな……) 『失敗したら知らなかった。成功なら成果は自分たちに寄越せ』は彼の国の傲慢さを表していた。 室長はあの組織の怖さも知っているし、利用の仕方も心得ているのだ。「まあ、会場周辺や宿泊施設などの調査は警備警察の役割だ。 そこで、我々はこの事件を追いかける……」 室長が藤井に合図を送った。 画面に閉鎖された工場で起きた未解決事件が表示されていた。「この事件の特徴は被害に遭った男性三人が鋭利な刃物で切られている所です」 犯行現場写真が映し出された。そこには壁にまで飛び散る血痕と主の居ない右手が一つ転がっていた。「二人は出血多量で死亡しましたが、生存者がひとり残っています」 死亡した二人と生存者の写真が表示される。生存者はリーダー格の男だ。「彼は頭のイカレタ女に切られたと言ってます」 リーダー格の男はまだ入院したままのようだった。「頭のイカレタ女?」 室長が藤
多摩川上流の川べり。 クーカは多摩川の上流に来ていた。インターネットで調べた廃キャンプ場跡に用がある為だった。 彼女は山奥に一人で来ていた。街中で焚火をするのは躊躇われるからだ。 ひとり焚き火をするのには訳があった。先日、海老沢から強奪した物ものを燃やしてしまう為だった。 廃キャンプ場跡であれば、人目も気にしないで良かろうと考えたのだ。 茶筒のような物の液体を捨ててから、中身を取りだして新聞紙にくるんだ。 それを焚き火の中に入れて、しばらくはジッと湧き上がる炎を見詰めていた。 薄く煙が空に昇っていく。それを風が攫って行っていた。 クーカの髪を風が撫でていく。それは幼い頃に分かれた母親の手のような優しさだ。「…………」 木々の間を抜ける陽の光。耳元をくすぐる様な暖かさに心が華やいだ。久しく忘れていた感覚だ。 クーカは風に誘われるように空を見上げた。トンビが遥かな高みを目指して飛び上がっていく所だ。(……あなたは風になれるの?) クーカは空を飛ぶ鳥に、心の中で密かに尋ねた。トンビは彼女の思惑など気にせず空を駆けてゆく。(自分にも羽が有ったら良かったのに……) クーカは風になりたかった。そうすれば何も考えずに済む。人の悪意に敏感な生活を送るのはウンザリしはじめているのだ。 暫く空を眺めている間に焚き火の火が小さくなった。クーカは焚き火に水をかけて消した。 消えた焚き火後を暫く見つめていたが、やがて踵を返して歩き去って行った。 その様子を見ている男が居た。先島だ。門田への事情聴取に来たのだが捗々しく行ってなかった。『彼女は男性に襲われたに等しいのですから……』 藤井にそう言われて、家から庭先に追い出されたのだ。男が居ると彼女が怯えてしまうと言われていた。 そして、庭先に出たところで煙に気が付いたのだった。(何だろう……) 煙が上がっている方に行ってみると、焚き火をしている少女がいた。 何となく気になって車に戻って双眼鏡を取りにゆき、木陰から不思議な少女を見てみた。(ん? ……泣いている?) 少女が目元を拭いて空を見上げている所だった。(煙が目に滲みたのか?) しかし、彼女の顔を見て驚愕した。 クーカだった。(本当にクーカなのか?) あれだけ探して見つからなかったのに、こんな人通り無い山中にいる意味が分からなか
(しまったっ!) こちらの駐車場には来ないだろうと思っていたのだ。 先島に気が付かないのか普通に歩いている。きっと駅に向かうのであろう。 もちろん、先島はクーカと直接会った事は無い。 しかし、チョウが狙撃された現場に居た男の顔を彼女は知っているはずだ。 どうしようかと思ったが、ここで引き返すと益々不自然になる。 先島は知らぬ顔しながら、自分の車に戻る事にしたのだ。 クーカと先島がすれ違った。ふと、先島は何気なくクーカの方にに視線を向けてみた。「!」 なんとクーカは横目で睨みつけていたではないか。(ばれていたかっ!) やはり、クーカは先島に気が付いていたのだ。先島は咄嗟に振り向きざまに胸の銃を引き抜き構えた。「くっ!」 すると目の前に拳銃がある。しかも、減音器を付けた小型の拳銃だった。 クーカも銃を引き抜いていたのだ。「……」「……」 二人はお互いに銃を突きつけあったままで睨みあいになってしまった。(どうする……) 警察官の職務として、本来なら武器を捨てる様に勧告するべきなのだが出来ない。先に動いた方が負ける気がするからだ。 先島には無限に思える時間だったが実際は五秒ほどだ。 不意にクーカの目線が動いたかと思うと、自分の銃をさっさとしまってしまった。「?」 同時に先島の背後からなにやら賑やかな声が聞こえて来た。「……」 先島が振り返ると、どこかの家族連れがやって来る所だった。 子供二人を含めた親子連れだ。河原のバーベキューを楽しんで来たのだろう。 彼女が静かに銃をしまった理由が分かった。(無関係な人間を戦闘に巻き込むのは良しとしないのか……) 銃撃戦では狙いの逸れた弾や跳弾で普通の市民が怪我をする事が多いのだ。それは日本では考えられない事だ。 外国などの街中で銃撃戦が始まると、街をゆく人々は地面などに伏せるそうだ。 しかし、日本人だけはボォーっと突っ立て居るのだと聞く。身近に銃犯罪が無いので対処方が分からない弊害であろう。「ふぅ……」 先島がため息をついて振り返ると、クーカは歩いて駐車場を抜ける所だった。(応援を呼んで確保するか……) このまま行かせるかどうかを悩んでしまった。何しろ疑わしいだけでは逮捕できない。しかも、見た目は十代の少女だ。(まあ、それは…… 俺の仕事じゃないな……) 先島は
「ああ、分かってる……」 とりあえず、返答してみた。我ながら間抜けな返事だと先島は思った。もっとも、気の利いた言葉がパッと出て来るのなら、もう少し出世できていたのかもしれない。「ああ、手伝うよ……」 シートベルトを締めるのに手こずるクーカを手助けした。「さっきはあの家族を巻き込まないでいてくれて有難う」 続いて、先島が意外な事を言いだした。クーカはビックリしてしまった。 ぱちくりとした目で先島を見詰めている。「何の事かしら……」 クーカは始めて逢った風を装っている。 闘い終わって褒められることは有ったが、闘わないのを褒められるのは初めてだったからだ。「ところで、日本では武器の所持は禁止されているんだよね……」 そんな先島が言い出した。「そんな物騒な物は持って無いわ」 クーカは助手席の窓を開けて外気を入れた。「自首するという手があるよ?」 先島が話を続けて来た。「何の罪で?」 クーカは素知らぬ顔で答える。「拳銃を持っていたじゃないか」 先程の駐車場での出来事を言っているらしい。「まあ、こんな愛くるしい少女に向かってなんて事を言うのかしら……」 クーカは取り調べを受けても平気なように銃は隠して来た。後で、回収に来れば良いと考えていたのだ。「しかも、殺し屋御用達の減音器まで付いていた奴だ……」 減音器の事を知っているのは流石だと思った。一般的な日本の警察官は銃には詳しくないと聞いていたからだ。「そんな物騒な物は持って無いわ……」 もちろん、減音器もククリナイフも一緒に隠してある。「俺に突きつけたじゃないか……」 クーカは先島を殺すつもりは無かった。そのつもりなら先島は車を運転する方では無く、載せられている方になるからだ。 銃を抜いたのは、先島の殺気に身体が反応してしまったせいだ。 自分でも拙かったと思っていたので、家族連れの接近を察知した時にすぐに退いたのだ。「突きつける? 何の事だか分からないわ」 依頼されても居ない仕事を、彼女はやらない主義だったのだ。それに目に見える脅威と言う程ではない。「あくまでも白を切るつもりなのか?」 先島がムッとし始めた。からかわれていると考えたからだ。もちろん、当たっている。「あら? それじゃあ私の身体検査でもなさる?」 クーカは自分のミニスカートを少しめくってみせた。
保安室。 先島はクーカと遭遇した事を室長に報告していた。「で、本人はクーカだと認めたのか?」 室長はかなり怒っているようだった。それはそうだろう。 クーカは保安室全員で追いかけているテロリストだ。目撃したばかりか接触までしているのに確保しなかったからだ。しかも、報告したのが、取り逃がした後だからだ。「いいえ、認めた訳では無かったですね……」 先島は分かっているだけに何も言わなかった。何を言っても取り逃がした事実が覆される事は無いからだ。 しかし、本当の理由は別の所に有る。 クーカが廃キャンプ場で見せた表情と、国際テロリストの側面とが合わないからだった。 先島は全員が常識と考える事には懐疑的になってしまう部分がある。 それは組織の裏切りに散々な目に逢って来ているせいかもしれない。(きっと裏がある……) クーカほどの殺し屋を日本に呼び寄せた組織があるはずだ。そう先島は考えていた。それが何なのかを探る方を優先する事にした。(目先の事に囚われて本質を見逃すのはもうごめんだしな……) 先島は他の室員には何も言わずにクーカの調査を続けようと考えているのだ。「それで、何か対策は取ってあるんだろうな?」 そんな先島の思いを無視して室長が質問をしてきた。「はい、発信器を彼女の服に付けました」 先島はクーカの外套に発信器を付けたらしい。彼女の行動を分析して、彼なりにクーカを理解しようとしているのかもしれない。「藤井。 発信器三十六番の信号を辿ってくれ」 発信器と言っても十二時間程度しか持たない超小型のものだ。絆創膏みたいな薄型でどこにでも貼り付けることが出来る。しかし、都会などの電波を拾えるエリア限定だった。 先島はシートベルトを締める手伝いをする振りをしてクーカの外套に張り付けていた。「はい」 藤井が返事をして発信器の信号を辿り始めた。 発信器の電波は携帯の無線局を利用して収集出来る仕組みだ。そうすれば三角測定で大まかな位置が特定できる。位置が判れば付近の防犯カメラを利用して対象を探し出せるのだ。 もちろん、違法スレスレな捜査になってしまうが保安室の面々は気にしないようだ。「んーーーーー?」 藤井の指先が軽快にキーボードを叩いている。彼女にとってはいつもの作業だ。 しかし、馴れない人間が見ていると魔法の呪文を打ち込んでいる魔
食品倉庫。 指定された倉庫は国道沿いにあった。そこは商店街からも住宅街からも離れている。ただ、高速道路の入り口が近いと言う理由で選ばれたらしい。 夜になると街灯と防犯用のライトに照らし出されただけの寂しい場所だ。 しかし、夜間だと言うのに門が開いていた。守衛所には人影が無い。(どうやら歓迎会の準備が整っているようなのね……) 歓迎会とは銃でお互いの健康を祝福し合う形式に違いないとクーカは思った。 門を抜け指定された倉庫に行くと扉の所に男が一人いた。体育会系なのかやたらと身体が大きかった。 なおも近づくと自分の後ろに二人付いて来ているのに気が付いた。もっとも、門の影にいるのは分かっていた。 わざわざ、姿を見せて待ち伏せしていたらしい。(愛想のない事……) 映画のように『良く来たな』ぐらいは言っても良いのにと思えたのだ。 ヨハンセンは電話での会話の中に合図を紛れ込ませていたのだ。それはトラブルの合図だ。 クーカが仕事に失敗した事など一度も無い。ヨハンセンが巧く行ったのかと質問する時には、自分がトラブルに巻き込まれているとの合図なのだったのだ。 彼女が探すと言ったのは、ヨハンセンを監禁した相手である。 身に降りかかる火の粉は根元から消してしまうに限るのだ。 扉の男は何も言わずに開けてくれた。扉の中に入ると後ろの男も付いて来ている。 倉庫は見た目が三階建てくらいの高さで、壁にはキャットウォークもある。倉庫の中は空っぽだった。二十メートル四方の少し暗め空間が開かれていた。 クーカは倉庫の中から漂ってくる殺気に気が付いていた。自分の正面には三人いる。彼ら以外からも気配はあった。(女が一人。その両隣に男が二人……) 男たちは武器を持っているのにも気が付いた。スーツを着ているが胸の部分が妙に膨らんでいる。それに、前ボタンを嵌めていないからだ。これは銃を持っている事を意味している。素早く抜けるようにだろう。(ヨハンセンのいけ好かないオードトワレは匂って来ないわね……) クーカの鼻は訓練で敏感に出来ている。聴覚と違って意識的に感度の上げ下げが出来ないのだ。 だから、香水やたばこの煙を嫌がる。(別の場所に監禁されているのか…… もう、何やってんのよ……) ヨハンセンは元傭兵なのだ。アチコチの戦場を渡り歩き実践も豊富のはずだった。 日本
女がクーカを見てニッコリと笑った。「用があるのは貴女じゃないわ」 しかし、クーカはむすっとした表情で言い放った。「私にはあるのよ? クーカちゃん……」 やはり、自分に用があるみたいだ。名前まで知っているという事は商売も知っているに違いなかった。 ドアの男が何も言わなかったのは、やはり自分を知っていたのだろうと考えた。「ある人物を始末して欲しいのよ」 女はいきなり用件を言い始めた。しかも、厄介な感じがする用件だ。「ある人物って?」 クーカが聞いた。仕事の依頼なら普通にヨハンセンに頼めば良いのにと考えた。「内閣総理大臣の町山」 女は事も無げに言った。「……」 クーカは黙ったままでだった。「それで、あなたの彼氏には仕事が終わるまで傍に居て貰う事にしたの……」 やはり、監禁されてしまったようだ。「……」 クーカはそれでも黙ったままだ。まだ、相手の思惑が分からないのだ。「大丈夫。 仕事をちゃんと終わらせれば解放してあげるわ」 女はナイフを取り出して来た。脅しているのかもしれない。「貴女たちが約束を守るとは思えないわね……」 クーカが答えた。むしろ口封じに殺されるのが常識だ。自分でもそうする。「彼氏の事が心配じゃないの?」 女は薄ら笑いを浮かべている。人を小馬鹿にする奴に共通する鼻にかかった笑い方だ。「ごらんなさい……」 すると女はクーカの足元に布に包まれた何かを投げて寄越した。 爪先で蹴ると布包みが開き、中に入っていた指らしきものが出て来た。「ふふふ…… 誰のだか聞く必要があるかしら?」 女が煙草をくわえた。すると脇に居た男のひとりがライターに火を点けて差し出した。 そして、煙を一筋吐き出すとノートパソコンの男に合図を送った。 彼はノートパソコンをクーカに向ける。画面をクーカに見せつける為だ。 そこには片手に包帯を巻かれたヨハンセンが写っていた。画面の端にはLIVEの文字が赤く光っている。どこかに監禁されているのだろう。 ノートパソコンを操作していた男は、クーカを見ながらニヤついていた。「要するにヨハンセンは生きているのね……」 クーカの目が光った。もとより、ヨハンセンの事は気にしていない。それよりも自分の知らない組織が、自分の命を握っている気になっているのが癇に障るのだ。 なによりも一番頭に来たのは目
「ぐあっ」 男は油断していたのか外を見ていた。そこを背後から撃たれたのだ。膝から崩れ落ちてしまった。「!」 続いてキャットウォークにいた男を銃撃した。腹を撃たれた男は前のめりに倒れて一階に落ちて来た。 クーカは飛び跳ねる様に横に飛び、女の両隣に居た男二人に続けざまに銃弾を浴びせた。「うっ!」「あうっ!」 男たちはクーカの俊敏な動きに反応する間も無い。腹を撃たれた彼らはそのまま折りたたまれたように弾き飛ばされた。クーカは立ち上がり男たちの方へと歩み寄って来た。バスッバスッ 枕を殴っているような音が倉庫の中に響いていく。続けて頭部に銃弾を送り込んだのだ。男たちの頭部が西瓜のように弾けていった。 これは瞬殺と言っても過言では無い出来事。彼等はあまりにも無防備過ぎたのだ。クーカが世界中の猛者相手に生き残ってこれた理由を考慮すべきだったのだ。 だが、女は理解出来なかった。自分たちは人質を取っていて、しかも多人数で取り囲んでいたからだった。圧倒的に有利に事を運んでいるとさえ思っていた。「え?」 そう言ったきり唖然としている。 クーカはそれを無視していた。歩きながら狙いを定めて倒れた男たちの頭部に銃弾を次々と送り出していく。止めを刺しているのだ。 最後に通信係の頭部に銃弾を送り出すと、その腹に刺さっている自分のナイフを引き抜いた。絶命しているせいなのか腹から血が噴き出す事は無かった。「……」 しかし、血糊が付いている。クーカは渋面を作って通信係の上着で綺麗に拭った。愛用品が汚れたのが気に入らないらしい。 ククリナイフを背中に戻すと、グロックの弾倉を取り換えた。小型なので八発しか装填されていないのだ。 女は最初に居た位置から微動だにしていなかった。動けなかったのだ。足元には異臭を放つ水たまりが出来つつある。「わ、私が戻らないと人質の命が……」 リーダー格の女の額に汗が滲んできた。相手が子供だと思ってせいもあるが、言う程には強くないと思っていたのだ。「……」 クーカがため息を付きながら女を見据えた。何時ものように見た目で誤解されていたようだ。『脅しが通じる相手』 女は今までは他人の威光を利用してのし上がって来た。自分は他人とは違うと勘違いしていたのだ。 だが、自分が過ごして来た粗暴な人生で、明確な強さを目の当たりにした事の無い
「あの娘はこれから友達を沢山作って、恋も一杯して、そしていつか結婚して子供たちに囲まれて静かに暮らす」 クーカは目を細めて『妹』の姿を見ていた。「そんな平凡な人生を送っていくの……」 打球を撃ち返せずに悔しがる妹。その妹を励ます友人たち。微笑ましい光景だ。「どれも…… お前には手の届かないものだな」 そんな様子を見ながら先島が言った。 「人は平凡なんかつまらないと言うけど、私から見れば眩しいくらいに羨ましいわ……」 実の姉が生存している事を知らない『妹』は、周りに居る友人たちと屈託なく笑っている。「彼女は私とは違う人生を送っていって欲しい。 それが私の残された願い…… 誰にも邪魔はさせないわ」 きっと何事も無ければ、妹の隣で共に光り輝いていたであろう自分の青春に思いを馳せていた。「……お前はそれで良いのか?」 先島が尋ねた。「物心付いてから今までに覚えたのは、人の殺し方と獲物を追い詰めるコツだけよ……」 クーカは口元に薄い笑いを浮かべがら言った。自分の人生にあるのは硝煙と血の匂いだけだ。今、居なくなっても誰も気に留めないし振り返られもしない。「……今更、どうにもならないわ」 きっと、どこか遠い国の知らない街の路地裏で、ひっそりと始末されるのが運命なのだと悟っている。風に吹かれると消えてしまう煙のようなものだ。「俺たちなら違う人生を送れるように手配できる」 俺たちとは先島が所属する組織の事だ。「表の世界に戻ってこないか? このまま暗闇の中をいくら走っても何も見えないままだぞ……」 先島は彼女をスカウトしようとしていた。殺し屋になるしかなかった不遇の人生を思いやっている訳ではない。 何とかして絶望の中で足掻いている少女を救いたかったの
小高い丘の上。 平日の午後。住宅街に設置されている児童公園には散策する人すらいない。 その児童公園は小高くなっている丘の上にあった。そして、公園の眼下にあるテニスコートが一望できていた。 テニスコートには部活なのだろうか、付近の中学校の生徒たちがラケットを振るっていた。 そんな学生たちをクーカはベンチに座ってぼんやりと眺めていた。「ここに居たのか…… 探したよ……」 クーカがチョコンと座るベンチの隣に先島が腰を掛けて来た。「……」 クーカは先島がやって来た事に関心が無いようだ。気が付いて無いかのように無言でコートを眺めている。 眼下に見えるテニスコートからは、テニスボールを撃ち返す音が響いて来た。それに交じって仲間を応援する声もする。 それは平和な日本を満喫するどこにでもある風景だ。「俺にもあんな時代があったな……」 生徒たちの上げる嬌声を聞きながら先島がポツリと言う感じで言った。「周りに居る大人は全部自分の味方だと信じていたもんさ」 そんな学生たちを見ながら、先島がおもむろに口を開いた。「無心に部活に打ち込んで、家に帰ってからは勉強そっちのけでゲームばかりやっていたっけ……」 もちろん人間関係の煩わしさもあったが、大人となって足枷だらけになった今とは雲泥の差だ。「……」 クーカは先島の話に関心が無いのか無言のままだった。 二人が見つめるコートの中に、一人の女子生徒が歩み出て来た。どうやら打球を受ける練習を行うようだ。 それを見ていた先島がおもむろに口を開いた。「彼女の名前は親谷野々花(おやたにののは)。年齢は14歳の中学生……」「成績は中くらいで友人は多数。 勉強は大嫌いだがスポーツは大好き」「まあ、どこにでも居る平均的な
(急がないとクーカの足取りが消えてしまう……) あの銃撃戦の跡にクーカの死体は無かったと聞く。もっとも素人に毛の生えた程度の連中では歯が立たないのは解っていた事だ。恐らくは無事に脱出している物だと考えていた。(まずは当日の監視カメラ映像を藤井に頼むか……) ポケットから携帯電話を取り出そうとした。カツンと何かに触れた感覚がある。 先島は上着のポケットにメモリスティックがある事に気が付いた。「なんだ?」 もちろん、そのメモリスティックは自分のものではない。会社の物でもない。「……」 先島は車に積んであるノートパソコンを起動した。メモリスティックの中身をチェックする為だ。 ノートパソコンに差し込んで中身を確認したが0バイトと表示押されている。それが増々不信感へと掻き立てた。「これは…… クーカが使っていた奴なのか?」 先日の事件があった時。 怪我で気を失う寸前に、くーかが何かを落としていたのを思い出した。殆ど無意識のうちに握り込んでいたのであろう。 きっと、先島を救助してくれた隊員は、私物と思ってポケットに入れてくれたらしい。 問題は中身が何なのかだ。「物理トラックを解析トレースしてみるか……」 ファイルの消去と言っても、単純な消去では物理的な領域を消されている事は少ない。ファイル消去後に何も操作されていなければ中身自体は残っている可能性が高いのだ。それを読み出せる状態にしてあげれば消去ファイルを復活させることは可能だ。 先島は自分のパソコンにインストールされている復元ツールを使って復活させる事にした。作業自体は難しくは無い。ツールが示すコマンドを認証していくだけだ。後はツールが推測して勝手にやってくれるのだ。 ほんの一時間程度で終了した。 もう一度メモリスティックの中身を表示させてみると、そこには改変前と改変後のファイルがあった。「やはり、何
都内の病院。 医者が言う事を聞かない人種はどこにでもいる。 先島もその一人だ。傍に居る医者は渋い顔をしていた。「どうしても。 仕事に戻らないといけないんですよ」 病院のベッドから起き上がった先島は、そんな言い訳にもならない事口にしていた。 ところが、先島の担当医は首を縦に振らない。一緒に居た看護師もあきれた顔をしている。「せめて縫い合わせた所が融着するまでは退院は許可できません」 そう言ってメガネの下から先島を睨んでいる。 致命傷では無かったが、弾は身体をすり抜けているのだ。少し動けば再び出血してしまうのが分かっている。そうなれば命に係わるので反対しているのだった。「いいえ。 自分が担当している事件は時間との勝負なので……」 そんな事は意にも介さずに自分の荷物(元々そんなに無かったが)をまとめ上げていた。 病院に見舞いに来ていた青山に、車を置いていってくれと頼んでおいたのだ。「駄目なものは駄目だと言っている」 医者は更に言い募ったが、先島は医者の忠告を無視しながら身支度をしていた。「歩ければそれでいいんで……退院しますね?」 先島は既に上着を羽織っていた。元より人の言う事を聞かない男だ。「万が一の事が有っても責任は持てんよ?」 医者は最後まで首を縦に振らなかった。「元々、自分の命は使い捨てですから……」 先島は自嘲気味に言いながら病室を後にした。 そんな先島の後姿を見ながら、医者は首を振りながらため息をついた。手元のボードに何かを書きつけて、次の患者の診察の為に歩み去った。 工場が無事に爆破されたのは知っている。青山がこっそりと教えてくれた。きっとクーカが始末してくれたのに違いない。(大人としては是非とも礼を言わないとな……) 工場はボイラー設備で不具合が発生して、『小規模な火災』が発生したと処
クーカは手近な樹に向かって手を伸ばした。 指先を何枚かの葉が滑っていく。 やがてガシッとした手ごたえがあった。枝を捕まえる事に成功したのだ。しかし、クーカの身体と落下速度を支える事が出来ない枝は直ぐに折れてしまった。 でも、クーカの身体を樹木の傍に引き寄せる手掛かりにはなった。クーカは何本かの枝の間を転げる様に落下していく。「うぐっ!」 一番下と思われる枝に腹をしたたかに打ち付けたクーカが呻き声を上げてしまった。彼女とて痛みは感じるのだ。「ぐはっ」 枝から地面に落ちたクーカは、肺の空気を全て吐き出してしまったかのような声が出てしまった。(は、早く…… 工場の敷地から脱出しないと拘束されてしまう……) 彼女は朦朧とした意識の中、脱出の事だけに専念した。クーカは痛みを無視する事が出来る様に訓練は受けている。痛みも彼女にとっては雑念の一種なのだ。すぐに立ち上がって周りを見渡し用水路を目指した。ヨハンセンが待機していると言っていたからだ。(ここからなら、拾い上げポイントまでたどり着ける……) クーカは工場のすぐそばを流れる用水路に飛び込んでいった。先島の事もチラリとよぎったが、まずは自分の安全が優先だと判断したのであった。 工場が吹き飛び爆炎を上げるのを鹿目は虚ろな目で見ていた。色々と画策したが何一つ手に入ることが出来なかったのだ。(どこで、間違ったのだ?) 挫折を知らない鹿目は戸惑っていた。彼の間違いはクーカを歯車の一つとして扱ってしまった事なのだろう。「ふっ、これでも私は日本を思っての行動だったのだがね……」 鹿目はぽつりと漏らした。傍には室長と藤井が控えている。藤井は鹿目との接触を全て室長に報告していたらしい。「人間のクローン技術は、今後の日本が強くなっていく為には必要な物なんだよ……」「……」 隣に
鹿目の工場。 目的の物を手に入れたクーカは台座の隠し扉から出て来た。もはや室内には物言わぬ骸しかいない。辺りを見回して少しだけため息を付いた。自分が入って来たエレベーターの出入り口に向かっていった。(応援が降りて来ているかも……) ひょっとしたらと身構えながら覗き込んでみる。しかし、誰もエレベーターシャフトには居なかった。急に応答が途絶したので対応が分からないのであろう。 クーカがシャフトを見上げると、自分が入って来た入り口は机のような物で塞がれてしまっている。エレベーターの箱は四階と五階の間で停止しているらしかった。(二階…… いいや、三階だったら待ち伏せされる可能性が薄いはず……) 自分が入って来た壁が塞がれているという事は、そこで待ち伏せされているに違いないと踏んでいた。自分でもそうするからだ。 安全に表に出る為には彼らの裏をかかないといけない。別段、殲滅しても構わないのだが、厄介な荷物を背負っているので避けたいところだ。(そこでジッとしててね……) 一階の塞がれた穴に向かって、そう心の中で呟くと一気に跳躍した。 クーカはエレベーターシャフトの中を、ジグザグに跳躍しながら登っていく。彼女の持っている身体能力の御陰だ。「んっ!」 三階のエレベーター口に辿り着いたクーカは、扉をこじ開けて中に入って行った。 すると『ズズンッ』とビルが振動するのが分かった。研究所の爆発が始まったみたいだ。小規模な爆発の連鎖で建物の構造を弱くしてから一気に破壊する。爆破解体と呼ばれる手法だ。(その後で焼夷爆弾で完全に燃やしてしまうと……) 外国のウィルス専門の研究機関では、燃焼温度が三千度にもなるテルミット反応爆薬が使われる。ここもそうしているに違いないと確信していた。証拠をもみ消すには完全に消滅させる必要があるのだろう。「……」 少し急ぐ必要性を感じていた
「?」 クーカが小首を傾げる。「特殊なキーが必要なのさ……」 大関の額から汗が垂れ始めた。「どうせ、貴方の網膜認証と指紋なんでしょ?」 クーカが目を指差しながら聞いた。ありふれた防犯装置だからだ。「ああ、生憎と怪我で動けなくなってしまったね……」 大関はそう言ってニヤリと笑った。その足元には血溜まりが出来始めている。銃撃戦での流れ弾に当たったのだ。「じゃあ、本人が生きている必要があるの?」 彼女は大関にグッと顔を近づけて言い放った。「現物を持っていけば良いだけなんじゃない?」 以前にも似たような装置を突破した事があるのだ。今回も同じ方法を取るつもりらしい。「え?」 大関は咄嗟にクーカが言った事が理解出来なかった。自分の命に価値があるとでも勘違いしていたのであろう。「まて、わしが死ぬと……」 大関がそこまで言いかけたがクーカは迷わず引き金を引いた。一発の鈍い音と引き換えに大関は首を垂れてしまった。「安全装置が働いて工場が自爆と言った所かしら……」 それは想定内だ。クーカは腰から小型のナイフを取り出した。これからの作業にククリナイフでは大きすぎるのだ。 仏像の台座に入り口があった。指紋と網膜の認証のようだ。クーカは大関から取り出した指と眼球を使って扉を開けた。 そこには階段があってもう一階分下がるようだ。降りていくと机と研究設備が並ぶ空間があった。しかし、そこは放棄されたかのように無人だった。研究者たちは予め逃がされていたのであろう。 無機質な空間が煌々と明かりで照らされている。 その中をクーカは銃を構えたままゆっくりと進んでいく。警備員がいる可能性はあるが配置されている可能性は少ないと考えている。「んがっ!」 不意に足元が崩れた感覚に襲われ膝を突いた。目の前の空間がいきなり曲がりくねった
地下一階。 全員が銃を構えたままエレベーターを見つめている。不意に開いた扉から何かが室内に放り込まれてきた。「手榴弾っ!」 誰かが叫んだが投げ込まれた物は、床に落ちる音と同時に炸裂した。強烈な音と閃光がホール内に充満した。「くそっ! スタングレネードかっ!」 警備隊長が自分の目を手で覆い隠しながら唸るように喋った。「撃てっ!」 だが、その掛け声よりも早く、ホール内に侵入を果たした者がいた。全員が目を離したので気が付くのが遅れたようだ。「ぐあっ!」 クーカは飛び込んで最初の男の首にナイフを突き立てた。そのままの体勢で隣に居た男の首を跳ね、返す刀で三人目の腹を切り裂いた。ナイフを使ったのは自分の存在を悟られるのを遅らせる為だ。(手前の右側に三人。 左側に二人。 左奥に二人。 右側奥に三人。 大関は一番奥の台座……) 彼女は右側の三人を始末している隙に、地下に居る人員の配置を見ていた。 男たちはいきなりの目くらましに気が動転しているのか銃を入り口に向けたままだ。次のターゲットはこの二人。その前に左奥の二人の内モニターを監視していた男にはナイフを投げ込んでやった。ナイフは男の首に刺さったが、傍に居たもう一人は咄嗟にしゃがみ込まれてしまった。牽制はとりあえずは成功だ。 クーカは腰から銃を取り出し、左手前の二人に銃弾を送り込んでいく。二人は横合いから来る銃弾に反応できずに、何が何だか分からない内に絶命してしまった。 ここまで掛かった時間は一分も無い。しかし、尚も台座に向かって突進していくクーカ。「くそっ! 小娘がっ!」 モニターの所に居た男が立ち上がって拳銃を撃って来た。しかし、クーカには当たらない。銃弾を右に左に避けながらクーカは男に迫っていく。「何故、当たらないんだっ!」 男は尚も引き金を引き続ける。しかし、銃弾はクーカの身体を捉える事無く床に後を残すだけだった。弾道が見えるクーカには無意味な行為だ。「悪鬼め……」 男の懐に飛び込んだクーカは右手のククリナイフで男の腕を薙ぎ払らった。それから、左手の銃で男の顎下から撃ち抜いた。 男は仁王立ちの状態からゆっくりと倒れていった。クーカはそのまま男の影から右奥の男たちを銃で撃ち倒した。 右奥に居た男たちはアサルトライフルを構えていたが、クーカが倒した男が邪魔で撃てなかったらしい。その
工場の入り口。 ここに来るまでに妨害行為は皆無だった。工場内に兵力を集中させたと見るべきだろう。 工場の入り口には監視カメラが有った。クーカはカメラに向かって携帯電話をかざして何やら操作した。(よし…… これで時間が稼げるっと……) 彼女は強力な赤外線を放射させて、監視カメラのCCD部品を飽和させたのだ。 こうすると自動回復するまで暫くは時間が稼げる。外国の強盗団が良く使う手口だ。 普段なら銃の形をしたアイテムを使っている。だが、今回は日本に持ち込む暇が無かった。(確か…… この辺よね……) 彼女はエレベーターホールに辿り着いた。そして、ホールの隣に有る掃除用具などがある備品室に入り込んだ。 クーカは保安室で見せて貰ったビルの設計図を覚えていた。 五階にあると言う秘密エレベーターの入り口に行く気は無かった。敵が待ち構えているのは分かり切っているからだ。(入るのに手間が掛かるのなら、壁に穴を開けてしまへば良いのよ……) 彼女はショートカットするつもりなのだ。別に友好的な訪問をしに来た訳では無い。真面目に敵の希望通りに動く必要も無いだろう。 背中に背負ったウサギのナップザックを降ろして中から四角い粘土のような物を取り出した。(加減が難しいのよね……) 壁に粘土のような物を張り付けていく。映画やドラマでお馴染みのC4爆薬だ。自在に形を変えられるので、こういう作業には向いている爆弾だ。(ん?) 爆薬を壁に張り付けていると、エレベーターの動作音が聞こえて来た。(誰か降りて来る……) いきなり監視カメラが使えなくなったので様子を見に来たのであろう。「……」 仕掛け終わったクーカは爆弾を爆発させた。爆弾の爆風は動作していたエレベーターの安全装置を作動させ停止させてしまった。(これで何人かは閉じ込める事が出来たっと……) 懐から降下用器具を取り出し、エレベーターのワイヤーに固定した。これを使って一気に降りるのだ。爆破音が響いた以上は、敵に何が起きたのかは伝わってしまったはずだ。 固定を確認するとクーカは中空に身を躍らせた。降下器具はゆっくりとだが彼女を静かに地下へと降ろしていく。(地下には何人いるのかしら……) 降下しながらクーカは考えた。もっとも敵の数は彼女にとっては問題では無い。掛かってしまう時間の方が問題だった。だから、